幽体という言葉について

 物質的肉体やそれをとりまく物質的環境がどのような組成や構造をしているか、今の科学はだんだん分かってきていますが、それでも解決できずにいるのが意識の謎です。科学する心すら意識がやっているわけです。外なる世界を観察した結果、様々な事が分かってきていますが、観察している主体である意識がどのような仕組みでそれを行っているのかほとんど分かってはいません。それを考える行為は、犬が自分の尻尾に噛みつこうとしてぐるぐる回ってしまうような愚かしさも内包しているように思います。

 生物には命があります。魂といっても良いでしょう。そして人間が死ぬと命は消えてしまいます。命は見る事はできません。「命が消える」と表現しましたが、それは炎のようにもたえられます。しかし体の中を開いてどんなに探したところで、火が燃えているのを見つける事はできないし、命の実体をとらえることもできません。命の炎は不可視のものです。けれど子供だって死体と生きている人の区別はつきます。死体にはあるべきなにかが抜けてしまっていると感じるでしょう。

 それで大昔の人々は、命や意識は目には見えない超物質で、それが肉体に宿っていると考えたのだと思います。自分の自我や記憶は肉体に宿っているけど肉そのものでないと考えたのでしょう。

 神智学ではこの意識の活動を司るものとして、不可視の体の存在を想定しています。

  1. 肉体があり、
  2. 肉体に重なるようにエーテル体があり、それは生物としての命を司っている。
  3. エーテル体に重なるようにアストラル体があり、意識の感情活動を司っている。
  4. さらにそれに重なって思考活動を司るメンタル体があり、
  5. さらにそれに重なって直観を司るスピリチュアル体があり、
  6. さらにそれに重なって意志を司るモナド体があり、
  7. さらにそれに重なって「高次の自己≒神」が存在する。

 それぞれの体は次元を隔てているとされます。つまり人間は多層次元にまたがって生きている存在だというのです。だからそれぞれの体は、それぞれ違う世界に存在しています。肉体は物質界に住み、アストラル体はアストラル界に、メンタル体はメンタル界に住み、スピリチュアル体はスピリチュアル界に住み・・・と続きます。

 人智学のR.シュタイナーは次のように規定しています。

  1. 肉体があり、
  2. 肉体に重なるようにエーテル体があり、
  3. それに重なるようにアストラル体があり、
  4. さらにその上位に自我が宿っている。

 自我は思考・感情・意志から成り、それを取り巻く七つの生命活動(生殖・呼吸・体温・栄養・成長・自己保存・排泄)があり、さらにそれを取り巻く12の感覚(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、均衡感覚、熱感覚、運動感覚、生命感覚、言語感覚、概念感覚、個体感覚)があると。

 これらは意識がもつ各機能ごとに区分けして、その仕組みを理解しようとしたのだと思います。先に説明した、第二の身体、第三の身体は、エーテル体、アストラル体と見なす事もできます。提唱者たちは長年の研究の末、大まじめでこのような世界観を語りましたが、結局のところは主観的な仮定的モデルにすぎないともいえ、その分け方や命名は体系間で一定ではありません。心は確かにいくつかの諸機能から構成されているように感じられるものですが、肉体の内臓を分類するように、はっきりと区分けする方法はまだ発明されていないようです。

 「幽体」という言葉を私は肉体を除くこれら複数の内的身体すべての総称として使っています。「幽」とは奥行きを表す言葉で、幽体とは奥行きのある体・・・つまり、多層構造の意識体という意味を示唆します。それぞれの層に属する身体は、それぞれの層の世界に住まわっているというわけです。(自他の区別が消えてしまう場合もあるわけで、幽体と幽界と二分してとらえるというのも少々無理があるのですが)。心は幾層にも幾つにも見えてくる幽玄で謎めいたものだと感じられます。

 幽体離脱した人は肉体から幽体側に意識の重心をシフトしており、物事の価値判断を幽体側で行います。つまり肉体から分離したときには、幽体側に肉体感覚があり、そこで物事を考え、感じ、判断し、意志を行使するのですから、自我であろうが、メンタル体であろうが、心のパーツすべてが肉体から離脱していると見なせ、複数ある意識の機能、あるいは複数の意識の体のうちの一つを選択的に分離しているとはいえないと思うのです。だからひっくるめて「幽体離脱」というわけです。

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