心を内的に観察すると

 睡眠に入る一歩手前に肉体認識の世界からの出口があり、そこから出ていく自分の心と体が内的にはあると見なせます。幽体となった者は、肉体の目を使わなくても目が見えますし、言葉を話す事もできるし、手足をもっていてものに触れる事、歩く事、セックスすることすらできます。肉体は寝たままでも、幽体の体を使って肉体と同じように振る舞う事が可能なのです。また思考したり、感情を動かしたり、意志を行使することもできます。

 幽体になった者のまわりには、それを取り巻くかのように広がっている空間があり、体がある以上、自他の区別も存在します。この時点では人間は肉体と重なるように、もう一つの体である幽体をもっていると考える事ができます。しかしそれだけでは終わらないのです。その幽体からさらにもう一度幽体離脱をするように、幽体を脱ぎ捨てる事が可能なのです。肉体から最初に幽体離脱した時点では、自分の体は肉体そっくりの姿形をしているのですが、さらにそこから二段離脱すると、さらに体は軽くなり、形は曖昧になり、消えてしまう事もあります。第二の身体とそれが経験する世界は、肉体次元同様、非常に精密なのですが、地上的法則の支配が強く、あまり自由が利きません。第三の身体になると、より自由度はますのですが、経験はより抽象的形而上的なものとなり、今度はそれを地上的な言葉で表現することが非常に困難になります。

 今の時点で言える事は、肉体、第二の体、第三の体まで存在しているらしいということです。

 普段は肉体に心(自我)が宿っていると感じるものだと思います。幽体離脱すると自分の肉体だったものが目の前に横たわっていて、幽体となった自分の体に、「私」を発見するわけですから幽体に心が宿っているように感じます。

内的にみた心の空間

 ですが肉体が住んでいる物質的な世界と幽界ではかなりの違いがあります。それは思った事が世界に反映するかのように、幽界や幽体共々その姿を変えてしまう事があるのです。たとえばある場所に行きたいと思うと、そのようになっているとか、こういう姿になりたいと思うと、そのようになっているとかです。

 幽界も幽体も、物質的世界やそこにある肉体のような固定された決定的な形を持たないようです。ですがそれがブヨブヨして輪郭がはっきりした形を取らないという事ではありません。幽界で見る自分の体や景観は地上次元と同様、極めて精密かつ鮮明なものです。しかし自分の心のありようによって、心を取り巻いている世界が、姿を変える事があるというわけです。つまり幽界においては、自分とそれを取り巻く世界が絶対的には分離されていないといえます。

 こんなところから本質的には、幽体も幽界も実のところ同じもので、心が反射するなんらかのメディウムが充満した空間的広がりと見なせるように思います。その空間には心そのものが充満していると考えるのです。

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