夢は現実、現実は夢

 夢というと人はそれが「はかないもの、どうとでも自由にできるもの」と思いがちですが、これは認識を改める必要があると思います。睡眠中の夢を自在に操れる人はまずいないので、自由になるものではありません。はかないものというのは、それは目覚めてから思う事であって、夢のさなかでは無我夢中になっているし、恐怖で悲鳴をあげたりするくらいリアルです。その渦中にいる間、それは限りなく現実です。 幽体離脱で幽界に入ったとき、その世界で自意識をもって意志を行使できるので、夢よりもさらに現実です。そしてその経験の記憶を、こっちの世界に持ち帰る事すら可能です。ですが幽界を自由に操れるかというと、やはりできる事とできない事があります。どうとでも自由になるなんて、大きな勘違いじゃないでしょうか。ちっとも自由にできないくせに、なんでもできるように錯覚している人が多いんじゃないでしょうか。 夢も幽界の経験も、空想とはまったく別物だと区別しなければなりません。

 幽界の現実と物質界の現実はある意味にています。我々が現実と呼ぶ人生の中でも、考えようによっては無我夢中で、人生に翻弄され闇雲に生きている、あるいは生かされているような気もしてきます。
 夢の世界で金貨を手に入れて手に握りしめて目覚めたからといって、手に金貨が握られているわけでもなし。金貨を握りしめて死んだからといって、あの世に金貨をもっていけるわけでもないでしょう。夢と似ています。
 夢の中の物語は唐突に始まり唐突に終わる事が多いものです。けれど現実の人生も唐突に始まり唐突に終わるものでは。夢と似ています。

 とはいっても「現実とは日常の物質界での生活の事であって、幽体離脱は現実とは見なせない。なぜなら幽体離脱で物質界の文字を読んだり、ある特定の場所を偵察しても事実と一致しないではないか」という意見は、なにを現実と認めるかという考え方の問題です。幽体離脱中の意識から見れば、この地上での経験だって数あるリアリティの中の一つに過ぎないともいえます。つまり幽体離脱中の自分からみれば、地上の生活だって夢に見えてきたりもします。二つの次元の異なる世界を往来しているのです。

 中国のお話でこんなのがあります。「男が旅の途中お粥を煮ているうちに眠ってしまう。男は夢を見て、その中で長い長い人生をおくる。少年時代や大人になっていくさに出て、そこで殺されて、はっと目覚めるとお粥が煮えている」。私もこれと同じような夢を見た事があります。「平和な生活を送っていて、やがてハイテク兵器を駆使した戦争が始まり、いやいやながら出兵せざるをえなくなり、死線を越えて生き残り、十年ぐらい経過したのち自分の家に帰ってくる。家は廃墟になっていて、私が使っていた机とか品々がホコリをかぶったままそこに残っている。両親は生きていたけどやがて父が次に母が亡くなり、私は天涯孤独になってしみじみしている」。長い年月を一晩の夢で全部経験するという大長編ドラマでした。我々が現実の人生と呼んでいるものも、終わってしまえば、一晩の夢なんじゃないかなあと思うんです。

 様々な宗教が、輪廻転生とか魂の進化だとか霊界での生活とか、そういうお話をかかげている事は知っています。でもなんか作為的だと思います。どうしても自分の自我を死後も存続させたいという地上的欲望の顕れ。こういう死後哲学はたくさんのバリエーションがあって統一されていないし、どれが本当かなどわかりっこないのです。どれもこれも好き勝手な事をいってますからね。私はあれこれ探索して比較しているうちに、みんな信じられなくなりました。「ふざけんなこのキチガイ。死ねよボケが!」と名だたる霊的完成者と大聖人たちに呪いの言葉を吐いたあとで、あっもうこの著者はとおの昔に死んでたんだねって(笑)。みんななんとなくリアリティを感じるものを信仰するだけのことです。死後の生を想定して、現世の生き方を考えるのは、人間だけにみられる奇妙な性質です。

 あれこれと妄想をこねくりまわして、複雑怪奇な霊界理論などを掲げて、さも真実であるかのように振る舞うより、むしろ「この世もあの世も全部夢だよ」といっちゃうほうが、潔くて私にはリアリティがあったりします。ただし夢は現実としての夢なのですが。だから「現実とて夢にすぎないのだ」などといって、現実の生活を軽視するというわけではないです。また夢も「夢は現実じゃないただの幻覚だ」などといって、それを軽視したりもしないということです。でもまあこれも死後哲学の一種ですね。

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