幽界は記憶の再現なのか?
幽体離脱したとき肉体の目は閉じているし手足を動かす事もありません。肉体は眠っています。それなのに体脱中の本人は、ちゃんと目が見えるしその他諸々の肉体感覚をもって行動しています。肉体に外部からの印象入力が無いにもかかわらず、外界を認めてそこで活動できるので、人は幽体をもっているという考え方もあるわけです。それに対して、それは脳が見ている内的なヴィジョンだという考え方もあります。
体脱したときしばしば自分の住んでいる部屋の中に立っていて、寝ている自分の肉体を見下ろす経験ができますが、その部屋の窓ガラスを割るなどして、そのあと肉体に戻ったとき窓ガラスが割れているということは無いわけです。だからこれは脳が見せている夢や幻覚のようなものだという考えも出てくるわけです。自分の部屋は、もし部屋が真っ暗だったとしても、手探りでどこになにがあるか、把握できるくらい良く知っているものだと思います。部屋の空間情報すべてが記憶の中にそっくりそのまま入っていて、幽体離脱中はその記憶によって再現された空間の中に入り込み、その空間があたかも存在するかのように思っているだけという見方も出てきます。
しかし幽体離脱中、当人は体脱中である事を自覚しており、そのとき自分のいる部屋が実際の部屋とは同じではない事にも気がつくことがあるのです。つまりあるべき物品が消えているとか、あるわけない物品が有るなどと気づくのです。もし純粋に記憶の中のみの世界なのであれば、そのような相違が起きるのは奇妙な気もします。自分の記憶が再現された幻想の部屋の中に入って、「これは実際の部屋と相違点がある」と気づくわけがないのでは。それだと実際の部屋に対する正確な記憶と、相違点のある記憶、二つを平行してもっている事になります。そういう事が無いとはいえませんが、そんな無駄な事を脳はやっているのでしょうか。
記憶は一体どこに蓄えられているのでしょうか。それは脳に記憶されているとか言われます。逆説的に「脳のある部位が破壊されるとこういう記憶が失われる」などという言われ方もします。とはいうものの、脳にどのように記憶が保管されているかが解明されはいません。コンピュータの記憶はすべて二進数の数値表現として記憶装置に蓄えられ、その際のフォーマットが決まっています。ですが人間の記憶がどのような形で保管されてるのか、まだ分かってはいないようです。もしそれがわかれば、脳の中から記憶を読み出す事が可能になるでしょう。「脳のこの部位は記憶に関係しているらしい」と言えるだけであって、「脳のこの部位に記憶されている」とは言えません。もしそのように言うなら、「ではその記憶そのものを取り出して見せてみろ」と言わねばなりません。
ドイツのオカルティスト、R.シュタイナーは記憶は脳にあるのではなく、エーテル体にあるのだと言いました。エーテル体は科学的には認められず、いわゆる超感覚をもった人々は見えると主張する体です。つまり科学的には無いものが記憶を蓄えているのだというのです。科学者は絶対認めないでしょう。エーテル体はみえる人には見え、見えない人には見えないのですが、何百人も見えるという人が出てくると、もうそれは有るんだという事にして話を進めていく人々も出てきます。本当に見える人々にとっては、それは実在としか言えないものなのですから。だからシュタイナーは見えない人々に対しては、それが見えるようになる方法を書いた本「いかにして超感覚世界の認識を獲得するか」を残しました。そういう人々を疑似科学とかキチガイよばわりする人々もいるでしょうが、それはそれで考え物で、見えない人は本当のところ感受性がニブイだけかもしれないわけです。
記憶の中の世界だと言うのは簡単ですが、我々は記憶というものについてどこまで正確に知っているのか分かったものではありません。自分の知っている事をすべて書き表す事は不可能でしょう。思い出せなくなった記憶もあるでしょうし、そうなった記憶がひょんな事をきっかけに思い出せたりもします。百パーセントの精度で、自分の記憶すべてに光を当てる事は不可能です。生誕から今までの記憶と、そして未来に向けて望んでいるヴィジョン、それらはみな記憶です。漠然としか思い出せなくても、それはどこかに存在しているから思い出せるのです。記憶が脳にあるのであっても、エーテル体にあるのであっても、とにかくどこかにデータが蓄積されているはずです。そしてどれほどの事を記憶しているか、人はすべては自覚できないものだと思います。いや、おそらく、ほんのわずかしか思い出せないというほうが正しいかもしれません。
幽体離脱をVRで再現するなら膨大なデータが必要
記憶は脳も含め肉体に保持されているとして、もし幽体離脱で行く世界がその記憶の再生によって触知されているとしたら、気が遠くなるほどの情報量があるに違いありません。幽体離脱したとき自分の部屋の畳の目を一本一本数える事すらできますし、実際の部屋の中にいるのと同程度の精密さがその空間にはあるからです。それは完全な立体情報をもっています。だからこそ空を飛んで町の景色を鳥瞰図的な視点で見る事ができるのです。もし絵のような平面的な記憶しかないなら、空を飛んで建物を上空からながめるなどという事はできないと思われます。脳(あるいは肉体)は肉体感覚で捉えた外界の情報を立体情報として、しかもかなり精密に記憶しているらしいとはいえそうです。
コンピュータによるバーチャルリアリティは、五感の再現性という意味では、まだまだお粗末なものです。視界を表現するポリゴンの3D画像はゲームには使えても、実物と見間違うほどのクオリティはありません。しかしこんな未発達なVRでも、それを実現するには膨大なデータ量とそれを処理する高性能のプロセッサが必要です。
視覚だけを取り上げて説明すると、人は外界の視覚情報を目から受け取っています。片方の目だけだと遠近感が分からなくなります。つまり眼球一つで得られる視覚情報は平面情報しか得られない。二つになれば両眼からの入力の差(視差)から、遠近感を脳が割り出して立体的な視覚として認識できるようになります。
VRでは視覚的なデータは、X,Y,Zという直角座標として格納されています。つまり幅、高さ、奥行きをもつ点の集合として立体物のデータを保管し、その物体をこの位置から見たときはこのように目に映るという計算を瞬時に行って、立体映像を作るのです。
コンピュータで擬似的に作った視覚信号を脳に送り込む事がもし可能だとしたら、そこに実際の空間など無いにもかかわらず、あたかもそれがあるかのように錯覚するでしょう。がしかし、これはSFのようなもの。できるように思えても、実は不可能な事かもしれません。
さてそこまで高度な技術が確立したとして、被験者を現実と錯覚するほどよくできた別世界に送り込むためには、その別世界のデータを用意しなければなりません。幽体離脱したとき自分が住んでいる部屋やさらには町が、それはそれはリアルに再現されるし、見て触れる事もできるし、動き回る事もできるわけです。ドアを開けたらその向こうは空っぽで、実は映画のセットのようなハリボテだったなどということは無いのです。どこまでも忠実に再現されます。地面を掘ればちゃんと土が掘られる様子が見えます。ものを壊せば、ちゃんと壊れます。人や動物もいて動いていて、会話することもできます。バーチャル世界を歩き回るコンピュータゲームは所詮おもちゃです。幽体離脱で入り込む世界の精密さには遠く及ばず、そうなるためにはまだまだ長い時間がかかるでしょう。こういう事をVRで実現するには、ゲームの何千倍(何万倍?)という情報量が必要になると思います。
人の脳細胞の数は約140億個などと言われます。脳がどのようにして記憶を保持しているのか分からないし、はたして細胞に記憶が蓄えられているのかもわかりません。もしかしたら細胞の中にはコイルのようなアンテナが入っていて、分散型データベースのように多人数で記憶を共有しているのかもしれないし、未知の別空間に蓄えられている記憶庫と無線でつながっているのかもしれません(笑)。それは冗談ですが、もし細胞に記憶が蓄えられているとして、細胞一個にどれほどの情報が記録できるのかも謎です。無意味な比喩ですが、コンピュータの記憶単位、バイト(1byteで0?255までの数値を記憶可能)で換算し、140億バイトというと、たかだか13ギガバイト。家庭用パソコンのハードディスクなみです。このサイズでは到底、幽体離脱なみのVRは再現できないのは明白です。脳が記憶を持っており、幽体離脱ではその記憶の世界に行くのだとすると、おそらく脳の記憶細胞一つ一つは、それ単体でものすごく多量の記憶を保持できるのでないと、話が合わないと思われます。
記憶は共有されているのか?
幽体離脱には人物に会って話をすることがあります。こちらの質問に相手が答えたりもするわけです。すべてが記憶の中の世界だとして、この他人はいったいだれなのでしょうか。自分が一人芝居してるんでしょうか。しかしその自覚はないし、相手からは予想もつかない返事が返ってくることもあるのです。意識の中には内在者ともいうべき、様々な人格が潜んでいて、幽体離脱するとそれがちゃんとイメージをまとって目の前に現れ、語らう事ができるのです。これらの人物の記憶は、自分の脳に蓄えられているのでしょうか。ではその記憶を読み出して再生している自分以外の意識は、いったいなんなのでしょう。自分の意識がコンピュータのマルチタスクのように働いて、幽界空間で複数の人格を演じているのでしょうか。
記憶(=データ)というのは不思議なものです。それは本質的に量はあっても大きさ(広がり)を持ちません。どういうことかというと、年々コンピュータのハードディスクの容量は増えてゆきますが、その物理的サイズはほぼ一定です。記録密度が上がって、同じサイズの箱でも、たくさんの情報が詰め込めるようになっていくわけです。記録媒体の上でデータは一定の広さを占有します。これは米粒の上に10文字書けるか1000文字書けるかというような技術的限界の問題なのであって、データそのものは空間の制約を受けるものではありません。
人生上の様々な経験が、どのような形式でどこに記憶されるのかは謎です。それを突き止めた例を私は知りません。しかしそれがどこかに記録されてることはほぼ確実だと思います。なんらかの形式でどこかに保存されていなければ、思い出す事などあり得ないからです。ところがそれがどこにあるのか誰にも、わからないというわけです。
ところで幽体離脱で行く世界が個人の記憶の中の世界だったとしたら、その個人が知らない事はその世界には現れないでしょう。たとえばその人が南極や月に行った事がないなら、その記憶は無いのだから、そのような世界に行く事はできない。知らない人と出会う事などない。ということになります。しかし実際問題として、そういう事は起きるといえます。これは経験上明らかです。ではその記憶はどこから来るのでしょうか。テレビや小説で拾った情報から、意識が紡ぎ出した記憶かもしれません。あるいは心理学でいう集合無意識なるものから来るのかもしれません。つまり自分以外の記憶とどこかでつながっているのかも。集合無意識があるのであれば、集合記憶なるものも存在するでしょう。臨死体験では三途の川を見たとか、多数の経験者にある種の共通性が見いだせます。となったとき記憶は脳にあるというよりも、どこか不可視の別次元に存在しており、脳はそのデータベースにアクセスする端末なのかもしれません。そこには個人の記憶もあり、大勢で共有されている記憶もある。そして個人記憶は権限機能によって他者には読めないようにプロテクトされているのかもしれません。こういうモデルが、よくオカルトで出てくるアカシックレコードというものです。天地開闢以来のあらゆる情報が記録されている記憶庫です。記憶が蓄えられるモデルを考えていくと、脳細胞に保存されているという説もさることながら、このような記憶庫の存在も見えてきたりするものです。脳にすべての記憶が入っているというのも、あまりに長期にわたる膨大な記憶の量を考えたとき、ホントにそんなに大量のデータが格納できるものだろうかという疑問も出てきます。まあ分からない以上、圧縮記録されてるとか、ホログラムのように記録されているとか、いくらでも理屈を考える事も可能ですけど。
幽体離脱で行く世界が記憶の世界だとしても、記憶の実体が何であるか分からないし、どれほどの深さと量があるのか、底が知れたものではありません。この宇宙がそうであるように記憶の世界も幽玄たる世界です。この地上世界の精密な複製物であり、それはどこかに記録されており、しかも日々更新されています。脳の中か、エーテル体か、それともどこか未知の次元にあるアカシックレコードかはわかりませんが。個人記憶を越えて、集合記憶なるものも存在するかもしれない。そのときは脳の中だけでは説明が付かなくなるでしょう。
さて、ここまで来たときに、そもそも空間とはなんぞやという疑問にぶち当たります。VRがそうであったように、空間の情報(記憶)があれば、人間にとって空間は再現できるのです。あらゆる肉体感覚も再現できます。人の意識はそのように作られている。これは幽体離脱が実証しています。幽体離脱が実証されていないという反論はあると思いますが、それは先にあげたシュタイナーの超感覚的知覚と同様、それを意図的に引き起こす事ができ、何度も経験を積んだ者にとって実証不要の公理というものです。
我々が現実と呼ぶこの世界とて、情報そのものにも見えてきます。森羅万象すべてが情報です。我々の日々の意識活動を通じて、物質世界の情報は記憶庫にコピーされている。幽体離脱はその記憶庫に入って、その記憶空間で活動することかもしれません。そしてその時、意志とそこから派生する思念に応じて、その記憶空間は術者が望んだ情報を開示させます。つまり「ある場所に行きたい」と念じ、その場所に行けるということは、その場所の記憶にアクセスして、幽界というコンソールにそれを投影するということです。バーチャル空間で情報を操作するオペレーティングシステムであり、そのシステムを操作する鍵は、ひとえに意識の使い方にかかっているのかも。
幽体離脱が記憶の世界だったとしても、それは探検するだけの価値がある、広大な空間であることは確かだと思います。
2003/06/22
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